文化・芸術

リスト「ピアノ協奏曲第1番」、ワーグナー「ローエングリン前奏曲」他, 日本フィル56回さいたま定演 

フランスとゲルマン的な審美性の中に、高貴な退廃のエスプリが微かに香り立つ演奏となったリスト「ピアノ協奏曲1番(変ホ長調)」。主題を変奏曲風に扱う、あるいは主題を何回も再現し全曲に統一感をもたせる循環様式である曲想に、叙情と詩性を織り交ぜた柔軟且つ安定した児玉麻里さんに拠るピアノ力奏。ベルカントの息遣いに共通する自然で優しい美しさと量感に溢れた技法は再び触れたい歌心だ。高音弦楽器を軸としたオーケストラの表情や音色もたおやかで安堵感を誘ったが、そうした内なる世界で鮮やかにピアノと呼応した木管楽器や3・4楽章で多用されたトライアングルの透明な響きが心地よい。

プログラムが進むにつれてコントラバスの丸みを帯びた深いピッチカートの錬磨が均衡な張力をステージ中央に引き寄せ、アンコール「ローエングリン 第三幕前奏曲」では楽器全てが縦横に手繰り寄せられた熱演となった。イングリッシュホルン(木管楽器)が壮大なワーグナーの交響的幻想へと展開する独特な存在感を如実にしていた。

帰路へ向かう聴衆から安らぎと穏やかさが伝わってくる週末の夜だ。

2009年11月6日(金)午後7時~ 大宮ソニックシティ 指揮 外山雄三 ピアノ 児玉麻里演奏 日本フィルハーモニー交響楽団 

参考資料 門馬直美著 西洋音楽史概説

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シューマン・歌曲「美しき5月に」・・・秀和さんの訳詞と解説を読んで 

リートは得てではないのだけれど、このところ、有名どころのドイツ歌曲を取り出して歌ってみる。普段は午前中30分くらい歌うが、この行為は私にとってラジオ体操のようなもので、体調のチューニングをしている時間と言えるかもしれない。扱っているドイツ歌曲は音程が狭く短いので、イタリア物のオペラ・アリアより気楽だ。

シューマン「詩人の恋」はハイネの詩に作曲された連作歌曲集だが、その第1曲「美しき5月」は、眩い光と木々の恵みが耽美的に表現されていて、ロマンチックな映画音楽としても十二分に通用する現代性がある。後ページの訳詞や解説を念頭に自分なりに訳してみるが、曲想と言葉が合致していて、芳しい五月の情景がくっきりと浮かんでくる。

本譜の訳詞と解説は吉田秀和さん。これには驚いたが、調性による正確な楽曲の捕え方と文学的な比喩は新しい評論体系を生み出したことを改めて痛感させられた。

~歌の旋律も単に控えめで慎ましいばかりでなく、祈るような、息苦しいほどの緊張感を伴って微妙に断続する~・・・見事な訳意、註釈である。

参考文献 「シューマン」世界音楽全集 (春秋社 版)

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風のささやき 日本フィル ハーモニー交響楽団・グリーグ「ホルベルグ組曲より幻想曲」他 - さいたま定期演奏会55回

銀色に光る穂の合間を抜っていく風のそよぎ。透徹な弦のゆらめき。アンコール曲・グリーグ「ホルベルグ組曲~幻想曲」は、北欧の自然を心の奥から発色し、叙情を超えた記憶に残る演奏だった。

後半ベートーベン「交響曲第6番・田園」。『ウイーンの森を歩くような気持ちになっていただけましたか?』という指揮者・飯森さんの言葉通り、絶対音楽から距離を置き、鳥の囀りや雷鳴が如実に伝わってくる、管楽器を主人公に自然の標題をテーマとした独創的な解釈。ティンパニーの炸裂音や官能性が滲む大変個性的な木管楽器の音色に、名手の重みを感じる。画一性から脱却した指揮者の必要性。

                     ☆☆

この日の演奏会場は拙宅から近く、金曜日の夜ということもあり、開演前にワインを飲む。キンキンに冷えた辛口の白ワインは美味しかった。チラシに日本フィル―さいたま定期演奏会を楽しむための特典が幾つか載っていたが、浮世の習いから羽をしばし休めて、気軽に音楽に浸るのもいい時間。クラシック的音楽と日常の融和、社会との有機的な相関関係の大切さを、ふと思った。

2009年9月18日(金) 午後7時~大宮ソニックシティ 指揮 飯森範親 演奏 日本フィルハーモニー交響楽団 

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N響定期公演「メンデルスゾーン・フィンガルの洞窟」他

代々木公園でべトナムフェア開催中。傍目に木々の秋香を感じつつ、NHKホールへ。

序曲「フィンガルの洞窟」は風が頬をさわっていくような始まり。瞬間、巧くいく、と思った。大抵の場合第一声良ければ終わりまで良しなのだ。弦、管楽器、ティンパニー全てが丸く温かく、肌触りがいいピュア・ウール100%の音色。高音弦楽器によるメンデルスゾーン特有の優美さも十二分に際立ち、パーフェクトな立体仕上げ総合得点9.999999・・・・・をマーク。

「ヴァイオリン協奏曲」は、ソリストであるダニエル・ホープの旋律が流れがちで、ホグウッドの音楽性と隔たりがあり、この日は協奏しづらかったでしょう。

交響曲第3番「スコットランド」。第一楽章の冒頭32小節の陰影を含んだ重層的な響きからバロック的展開による曲の導入は見事。作曲家メンデルスゾーンの才気と力量を如実に示す部分でもある。金管楽器はフォルテとピアノ両面の表現を要求され難解だが、2或いは3楽章のおわり「ラ・ミ・ド・ラ(※移動ド法)↘」で背筋を使って巧みにピアノで処理されていた。反面、硬い響きから空気が交じった柔らかい響き、拮抗する衝撃的な響きといった、弦楽器と調和する、又は対立・凌駕する多様な音色を期待したい箇所もあった。4楽章(アレグロ・マエストーゾ・アッサーイ)の弦楽器が乱立する-「美は乱調にあり」といった、しかし何処までも優雅な佇まいが根底に流れているメンデルスゾーン的な熱情に私は全開モードし、瞳孔が見開いてヴァイオリン属の豊かで良質な音色へ肩がついつい向いてしまう。-情熱が立ち帰り、バランスよ、お世話様。-おかげで、ぐっすり就寝。

『フェリックス・メンデルスゾーン』、貴方は、もっともっと、たくさん注目されるべき早熟型作曲家です。

9月19日(土) 6:00~ NHKホール 指揮 クリストファー・ホグウッド 演奏 NHK交響楽団

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音楽家マリア・カラスへのアプローチ⑤西洋の歴史的建築物を思わせる威厳と耀き カスタ・ディーヴァ

初めてマリアの歌を聞くと、多くの場合その音色にエキセントリックな印象を受けるが、聴くにしろ歌うにしろ声楽的な感覚に馴染んでいくと、いつしか幽玄な声色に引きこまれるだろう。そして私が最も注目するのは、劇的表現に隠された的確な発声だ。

声質はドラマチック・ソプラノ、ゆえに声帯は短く幅が広い。個性的な音色のカラーを纏うことで独自性を強め、胸声区と鼻腔から額にかける頭声区の共鳴をミックスすることで、深く高く遠くまで届く効率的な響きと力強さに支えられ、構造ががっしりした西洋の歴史的建築物を思わせる威厳と耀きを放つ。

オペラ「ノルマ」(ベリッー二)」で演じているノルマは、マリアの高潔でエネルギッシュな内面を象徴しているが、恍惚と神秘的なこのオペラの名曲中の名曲であるアリア「カスタ・ディーヴァ」でも、楽曲の入念な分析が為されている。

前半の「~♪a noi volgi ,a noi volgi (ブレス)から母音ahで2点aに順次上行した後 2点aをタイで結んだ付点4分音符を3回引き伸ばしてクレッシェンドしながら、頂点となる2点bで天地が避けんばかりの拮抗状態を衝撃的なフォルテッシモで歌っている(鍵盤打楽器のピアノならいとも簡単に弾けるスケール展開!)部分は、極まりない難解な声楽技術を必要としているが、その解決策は言葉のつながりを不自然に切らず驚くほどソルフェージュとしてシンプルに旋律を分解し、ブレスを巧みに或いは豊かに吸って情感の高まりを表現している。ハートより、まず頭脳ありきなのだ。

また、文学的視点からは巫女であるノルマの神性と人間本質の内的分裂を顕わしていると私は読むが、早々としたストーリー前半のクライマックスはサスペンス的な高揚感を与える。

後半はゆるやかな2拍子系から軽快な4拍子にリズムが変化し、同じ旋律と語彙を用いた32章節が省かれたスピーディなエンディングで、2点aから2点bに半音上がる翳りを帯びた音程は明るい3点Cに跳躍してアレンジされ、華麗で果敢なノルマ像を増幅させている。双方とも慣習としての流れだそうだが、マリアは作曲家の意図をより鮮明に打ち出す手法を積極的に支持していて、時代や聴衆を意識する大切さを明確にしている。

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音楽家マリア・カラスへのアプローチ④指揮ジョルジュ・プレートル2010年ウイーンフィル・ニューイヤーコンサート(予定)

マスネー、べリッー二、プッチーニの小曲が最初に歌われている「今甦る幻のマリア・カラス」ビデオ、実は私が先行して目を見張ったのは、マリアの歌を懸命に指揮するジョルジュ・プレートルの音楽性とその姿でした。

1924年フランス生まれ御年85歳、2008年ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートで指揮を務め、2010年ニューイヤーコンサートで再度指揮が予定されていますが、この若かりし頃のフィルム断片を通して、今回はマリアを盛り立てることで才気を輝かせているプレートルに、スポットをあててみました。

さて、花の香りに酔いしれ歌う、彼の熱情が秘められた個性的でエレガントな指揮姿は、幾多の歌劇場に身を置き、歌を知り尽くし、音楽に身を投じようとしている個人的なライフの彫塑に映ります。短いオーケストラ前奏で天高く情感が一挙に登りつめ、劇的な様相が強烈に頂点に達した後ロマンが反転し、抑制されたリリックな歌旋律へ自然に誘導していく様は、独創とアクロバット的な技量の極致といえます。

また、マリアのマスク(面)に声を閉じ込めた繊細なピアニッシモで、韻(弱めのアクセント)を踏む、或いは3連符1つ1つを明確に刻むなどの細密な表現に対して、プレートルはオーケストラに精緻な抑揚を指示し、休符部分では休むことなく点を打って声の脈動を伝え、常に歌と伴奏が呼応し安定した構図を創り出し、ドラマチックなオペラとは異なる可憐で清楚なマリアの魅力を最大限に引き出しています。

プレートル指揮による2010年ニューイヤーコンサート。ロマンティック・サイエンス200%の果実の重みが、いやいや、今から楽しみです。

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音楽家マリア・カラスへのアプローチ③オペラが時代錯誤の芸術様式に陥ることなく・・

ジュリーアード・マスター講義本・プロローグ後半には、オペラが時代錯誤の芸術様式に陥ることなく、その変遷と聴衆を念頭に置いた、無意識下であるにせよ、単なる歌い手に留まらない社会構造の洞察と予見といった、プロバガンダ的なマリアの思念が貫かれています。

                       ☆☆

「~略~なぜなら現代(注:1960年後前後を焦点と考えられる)では、人が歌いながら『君を愛しているよ』とか、『あなたなんか嫌いです』とか言っているのを、大衆が素直に受け入れるのが難しくなっているという意味から言えば、オペラというものは死んでしまった芸術様式なのです。~略~にもかかわらず私たちは大衆にこの芸術を受け入れてもらうように努めていかなければなりません。それが実現するかどうかは、オペラにほんの少しの新鮮な息吹を吹き込むことができるかどうかに懸かっています。(注:具体的な方法として、長すぎる音楽のカット、ステージ上のおおげさな身動きを抑えた自然で真実に見えるしぐさ、聴衆自ら理解できる余裕をもった雰囲気を挙げている

「しかしながら私たちは、しばしば同時にふたつの気持ちをもたなくてはならないのです。すなはち作曲家に対する演奏家の気持ちと、自分の歌を聴いている聴衆の気持ちのふたつです。~略~(時代によって)人々の着るものも、考え方も違います。ただひとつ変わらないものは、どのような時代にも共通な人間の深い正直な感情ではないでしょうか。」

                       ☆☆

オペラ・アリアである「歌に生き、恋に生き」「カスタ・ディーヴァ」をビデオで聴き観ていると、役柄に対するマリアの集中度と没入は凄まじく、寸分の隙間もないキャラクターと感情の一致、無意味に猛々しい不自然な発声は見当たらず、音楽とエモーションの複合的要素が精密に構築された真意的宇宙へと聴衆を引き込みます。

参考ビデオ「今甦る幻のマリア・カラス」

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音楽家マリア・カラスへのアプローチ②ベルカントとは表現すること

♪ド ミィファ そそ↗ド ミィファ そそ↗ ドォス-ィラ ソ ファ ミレド↘

ヴィヴァルディ「ギター協奏曲 トリオ ハ長調 1楽章」は、ギターとヴァイオリンの協奏と同化、時折おしゃまな鳥の囀りを思わせるフルート或いはピッコロが合いの手を入れた、際限ないイタリア人のお喋りに聞こえます。「元気?」「まあまあっね。」「では 」「お昼何食べよか?」みたいな。指揮はクラウディオ・シモーネ、演奏はⅠ Solisiti Veneti  です。

さて、マリア・カラス ジュリーアード・マスター講義本・プロローグに、「イタリア音楽の主要な特色は、流れるような変化を伴った躍動感が存在する。」とあり、上記のギター協奏曲にも通じますが、「ワルキーリア」のビュルン・ヒルデを演じたマリアはベルカントのメソードはベッリーニを歌うようにワーグナーと同様な部分があるとも。

では、この何とも魅惑的な響きである「ベルカント」とは何でしょう?

直接的な語訳は「美しい流れ」、即ち滑らかな息の流れを土台としたレガート奏法に言葉の要素が溶け合った審美的な歌唱法と私は解釈し、マリアは「表現する」と述べています。

「言葉を持って表現する」という前提として、器楽奏者がゆっくり音階とアルペジオを練習し少しづつスピードと柔軟性をあげていく緻密さを挙げ、楽譜を粉々になるまで分析し、研究し、音楽や表現の要求に応えられていく、耐性と知的な作業の必要性をも説いていますが。

どんなに重たい役を歌う場合でも「声を常に軽やかに保つこと」。

教師イダルゴの声楽哲学はドラマチック・ソプラノであり劇的オペラ表現者であったマリアの真髄でした。

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アイスジャスミン茶飲みながら、山下和仁CDヴィヴァルディ「ギター協奏曲集」

昨日の蒸し暑さとはうってかえって、今朝方は秋の気配が漂ってくる。

この時期、朝や夕べにフィットするのが山下和仁さんの「ヴィヴァルディ、ジュリー二・ギター協奏曲集」。残念だけれど現在はアマゾンでこの盤は見当たらない。

第1曲ヴィヴァルディ「トリオ ハ長調」1楽章はモーツアルト的な駆け出したくなる爽快感と煌きに満ちている。陽が昇り沈んでいく1日の始まりと終息感。ヴェネチアの興隆と憂愁が伝わってくる、情緒に溺れないギターの抑揚と甘美な爪弾きが、静かに押しては返す波のうねりのようだ。

久し振りにヴィヴァルディのソプラノ歌曲集を取り出す。耽美な旋律は往く夏を惜しむ蜻蛉のような儚さをひめている。

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音楽家マリア・カラスへのアプローチ ①

「マリア・カラス オペラの歌い方」―本の表紙を楕円に繰り抜かれたマリアの写真は、緑色の素地に金色の刺繍が施された民族衣装に身を包み、耳元は大きな真珠のイヤリングが光り凛としてフォトジェニックでありながら、目元に優しさを湛え明るく微笑んでいる。

「20世紀最大のオペラ歌手であり芸術家はマリア・カラスです。」と箴言した老教師。

1971年10月から翌年3月の12週・週2日間に及びマリアによるジュリアード音楽院での声楽公開レッスンが記述され、彼女自身の言葉で連ねられた14ページに渡るプロローグは2時間かかっても読みきれない濃密な内容だ。

コロラチューナ歌手であったイダルゴとの教育的な触れあい、音楽に対する生硬で妥協のない取り組み、ベルカント唱法の本来的理解、作品の鋭い分析とその意図をより透明化するための自発的な曲のアレンジ、時代を意識した聴衆への積極的アプローチなど、哲学的且つ明瞭な文面と芸術を超えた、果敢で崇高な生き方真実が、驚きと常に豊かな気付きを与えてくれる。

文献 「マリア・カラス オペラの歌い方~ジュリアード音楽院マスタークラス講義(ジョン・アードイン著 西原匡紀・訳 音楽の友社刊)」

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時、音楽の習性

夏の夜明けから朝方は、本当に気持ちがよい。早い時は4時半に目を覚ましてしまい、一日が始まる。器楽的な音を流さず、蝉や鳥の鳴き声・大気の重みを感じながら過す自然と一体化した時間も、最高だ。

時間に対する執着、差し迫った思い。これは聴いていた気に入りの曲が終わりに向かう場合も同じで、性懲りもなく惜しんでしまう。時と共に流れ、耽溺し、迷走し、訴える音楽の非恒常性。論理や意味を超えた音楽の特殊性が、私を離すことはないだろう。

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ベートーベン「交響曲第2番」、「ウイリアムテル序曲」:曽我大介指揮・東京ニューシティ管弦楽団

コントラバスを専攻した曽我大介の指揮により、東京ニューシティは低音楽器を母胎とした深みとバランスあるオーケストレーションに成功している。プログラム全般に漂うしめやかな諧調は、後方・低音弦楽器から前方・高音弦楽器と順次設置した中に管・打楽器群を埋め込んだ、曽我の入念な楽器配置が要因だ。

未明ともいえるベートーベン「交響曲第2番」は闊達で力動的な1楽章、2楽章で弛みが感じられる部分が僅かにあったものの、べートベンの和声的な溌剌たる魅力を見事に顕在化した。「交響曲第6番・田園」は、円やかで柔らかなチェロ、コントラバスの音色にホルンを主体とした管楽器が自然に溶け込んだ癒し世界が繰り広げられたが、4楽章終盤で緊迫した硬い音色にヴァイオリン属が変質したのは惜しい。

この日最も目を引いたのは、終曲のロッシーニ「ウイリアムテル序曲」だろう。滋味と叙情に溢れる1楽章から、明澄な金管楽器によって躍動とエキサィテングに舞台転換される4楽章まで、上品なコーティングがなされた隙間ない造形と高揚感、快活なリズムに万全な熱い喝采が寄せられた。7月3日(金)pm7:00~ 池袋東京芸術劇場 

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佐藤美枝子・中鉢 聡 デュオリサイタル

歌のリサイタルは楽しいですね。プログラムはドニゼッティ、ヴェルディの難解な名曲が中心。お遊びで私もヴェルデイ・ソプラノ用楽譜を覗いてみました。「慕わしき御名は(Caro nome)」の最終部、3点cから2点dis に下がり3点cisに跳躍するという厭らしい微妙な音程、「ああ、そはかの人か~花から花へ」は後半で音符が鍵盤打楽器のごとく緻密に連なり、マラソン選手並みの体力・気力を要求。ヴェルディが自分で歌えるはずないから、こうした曲作りをしたんでしょうね~。

デュオである「愛の妙薬」~ラララは、お二人のオペラ的な演技と佐藤美枝子さんの貫禄を存分に楽しみました。アンコールのオペレッタ曲で中鉢さんがステージを越えて観客とコミュニュケーションを取ったり、日本語の歌詞でお互いの目を見合った、ダイレクトな愛の表現が伝わってきます。気心の知れたユーモアとオペラ的なデュオリサイタルでした。

7月11日(土) 松戸森のホール21 14:00~

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モスクワ放送交響楽団 オペラ《イオランタ》

瑞々しい美声と端正な技法で盲目の姫イオランタを演じた佐藤美枝子。声楽的に申し分ない舞台である。しかし、騎士ヴォデモンであるオレグ・ドルコフが、前半に脆弱な印象を与えるファルセット表現があったにせよ、一目で恋におちたイオランタに光の世界を教え、彼女に訪れる新たな心の覚醒と清冽な恋は、人格と人格が相対(あいたい)する内奥から溢れる劇的な表現を求めたい。

オペラ全体はレネ王であるドミトリー・ベロセルスキーの、深い愛惜と熱情的な父性を表現したバスの豊かで強靭な歌声が導線となり、抑制され翳りを帯びた前半から愛の力を根底に見開かれたイオランタの現象的な世界を、チャイコフスキー「交響曲第5番」が微かに混在したシンフョニックなオーケストラと習熟した合唱団の抱合によって、歓喜のコーダへ向かう。

モスクワ放送交響楽団にとって手馴れたロシアン・オペラということもあるだろう。ソロ・バイオリンとハープの重奏、独奏チェロの響き、管弦楽器、ティンパニー、合唱全ての透明な音色が縦横に駆使され、甘美で叙情的なチャイコフスキー世界を的確に見事に表現し、十二分に感動を誘う堪能の時となった。 /コンサート形式 6月5日 サントリー・ホール

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ミハイル・プレトニョフ指揮 「悲愴」-ロシアナショナル管弦楽団

以前「名曲の楽しみ」でプレトニョフ指揮「悲愴」を流していた。優等生的な演奏だけど好感を持った。図書館から借りて聴いたムラビンスキーの演奏は各楽器が独立して高密な名演なのだが重くて馴染まなかった。何たって3楽章の終わりは暗過ぎる。時代が生む音楽、必要とする音楽があるのだ。

この日は悲愴を聴きに行ったといっても過言ではないのだけど、バイオリン協奏曲では、体躯の見事なオーケストラ団員を背景に、ソリスト川久保賜紀さんは怯むことなく感受性の鋭い叙情性に溢れた熱演を繰り広げた。マゼンダ・ピンクとオレンジを混ぜた華やかなドレス姿が不思議なくらい、いつしかオーケストラに溶け込んでいた。

さて「悲愴」である。お箱といえるプログラムなので完璧な仕上がりはもちろんだが、2楽章からが特に素晴らしかった。ロシアの悠久な大地と空の広がり、風の流れが脈々と波打つ。格調高いチューバを主体としたダイナミックな金管楽器、チェロをふくめた弦楽器群、打楽器群も大奮闘。ちょっと久しぶりに涙ぐんだ。チャイコフスキーは西洋的だと言われているけれど、心が動される音楽の底流には民族的な秘薬が隠れていると思う。

7月4日(土) 2時 サントリーホール

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光輝く天空よ-DVDオペラ「イオランタ」(チャイコフスキー)

アンデルセンの童話である戯曲「レネ王の娘」を基に、盲目の姫・イオランタが強い意識化によって異なった次元に覚醒していくオペラ映画。

演技者と歌い手は分かれており発声の勉強には用を得ないが、「暗闇を纏っていれば自然界は不変~♪」など、訳詞(一柳 冨美子さん)が大変哲学的で、複数回見聞きすることで理解が深まっていく言語世界だ。

イオランタに恋をした騎士ヴォデモンが彼女を連れ出す自然界を背景に、互いの世界を認知しあい、求め合い、共鳴し、共存する場面が秀逸。

父であるレネ王の一人娘に対する懊悩と愛情は暖かく深いバスで表現されている。日本でのオペラ上演は限られているようだが、舞台で観てみたいロマンチックで純化されたチャイコフスキー音楽だ。

1963年リガ・フィルム 歌劇「イオランタ」映画版 

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曽我大介・音楽千夜一夜物語

ブザンソン指揮者国際コンクール優勝、近年は作曲家としても著しく、国内に留まらず国際的な活動を繰り広げるマルチな音楽家、曽我大介氏による名曲講座。

4月12日はワルツ「美しき青きドナウ」を題材に、ヨハン・シュトラウス一家の相貌、シュトラウスⅡ世の功績と知られざる素顔、ワルツの前進である民族舞踊レントラーをタップで紹介するなど、盛り沢山な内容と茶目っ気たっぷりな語り口に、世代を問わないサロン会場は朗かな雰囲気で包まれた。

日曜日の午後3時から5時にかけて肩の力を抜いて楽しめるこのシリーズは、8月2日にメンデルスゾーン「真夏の夜の夢」へと続く。お問い合わせは「ヤマハ ミュージック アベニュー銀座 アネックス」まで HP曽我大介

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静謐の色、静寂な音 浜口陽三 生誕100年記念展

地下鉄半蔵門線水天宮前駅出口A3、角のうどん屋で軽く昼食をすませ、信号を渡り相向いのミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションへ。薄暗い照明の下に、一階は微妙なグラデーションが重なる版画作品が並び、地下に油彩の風景画や水墨画、少年期の作品が展示。

浜口陽三は「さくらんぼ」や「すいか」をモチーフにしたカラーメゾチント手法、いわゆる銅版画で名高いが、

油彩である「かもめのいる風景」(1990年頃)は、夜の帳に包まれた深い群青色の海と空を遮る壁に、鮮やかな紅色のかもめが6羽とまっているファンタスティックな世界で、平静な魂を引き寄せられる。1950年前後の初期作品は、フジタ、モジリアー二、キスリングなどエコール・ド・パリ派の影響を受けていると思われるが、単純な線で白が混じった淡い璧色とベージュの油彩で描かれた「二人の裸婦」は、日本画家・小倉遊亀的な清楚さと都会的でモダンな印象によって飽きさせない。

平日で雨天ということもあり、落ち着いた館内と藍色や黒の深い色彩を使った独創的な作品群は自分を取り戻すにふさわしく、再度気軽に出かけたいギャラリーだ。

浜口陽三 生誕100年記念展 2009年7月20日(月曜日休館・祝日の場合は翌日)まで 

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新大久保・民族的ベルカント発声

帰り道、電車が来るまで新大久保駅高台のホームから、初めて歩いた通りをながめる。・・・アジア的喧騒、といっても夏至が近い日本の夜はけだるい暑さとは無縁で心地よい。

・・ふとホーチミン市民劇場で聴いた高度なテクニックを持つベトナム人歌手達の声を思いだした。ベトナム人女性の話し声は高めで天国的な繊細さが特徴で、その歌声は西洋ベルカントを模倣しつつ、響きと言葉のニュアンスに民族的な色彩感が感じられた。

同様に日本人による日本歌曲を聴いていると、時には他国の歌にせよ、知らずして無意識下の日本的な歌いまわしを感じる時がある。西洋的な衣裳を纏っても古来民族の遺伝的形質が微かに潜んでいるのだ。

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たかがブログ、されどブログ

世の中の動きを見ていて、ブログも市民権を得る時代が到来しつつあると考えた。

ブログは私にとって物を書く上での初期段階に過ぎないのだが、ライターの端くれとして、不可知な部分もあるだろうが信憑性には気をつけている。全部ではないけれど例を挙げるなら、「吉田秀和企画展」は実際のワード文章における長さは400字詰め原稿用紙4、5枚、吉田先生の書いた「モーツアルト」や作曲家の批評など無造作に読んだ上で、ブログ用に読みやすい状態に圧縮している。

フランスの批評家アンリ・ゲオンについては反省を強いられて、フランス語辞書で語義を確かめ小林秀雄の参考文献を読み直した。

読んだり聞いたりというポテンシャルは千差万別で主旨がどの程度正確に伝わるか疑問だが、やはり、短文あっても実際の文章を読み意味を少しでもわかって頂けたらと思う。これが所謂公共性の高いマス・メディアを手本にする由縁である。

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音楽日記①

原稿書き1個終わり、気分がいいですね。CD「べートベン 交響曲第2番」が届きました。それと、ブラームスの歌曲はシューマンの影響を受けていると感じた矢先、池辺先生の「シューマンの音符たち」を読んでいたく納得。乗りのいい軽やかな文章で読みやすいです。午後は遠山一行さんの批評文を読む予定。

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食事とコンサート

ソプラノ歌手であり、主婦であった東 敦子さん。忙しい毎日をポトフを作って乗り切ったとか。で、忙しい冬にはクロックポットという電気鍋がお手軽便利。出かけに旬の野菜や肉を入れて、帰ってくればホカホカに出来上がり。後は穀物類や果物を+@すればオーケーというわけです。

コンサートに出かける場合、私は大抵自宅を含めたどこかで軽食を取りエネルギーを蓄えます。早めに到着すれば、珈琲を飲んで目を覚まして座席へ。軽い風邪でも直るまで時間がかかるようになったこの頃、メンテナンスの重要性をひしひし感じます。

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いよいよ6月、ポリーニCD「エチュード」聴きながら

この時期にCDでポリーニを聴いているというのが、いじらしいですね。1972年録音、作品10の第1番ハ長調はいつだって端然とした意識を高めます。

古くからの友人が通年届けてくれるコンサートのチラシ。場所は6月ルーテル市谷教会、都合がつかない年もあったけれど今年も行きますよ。初旬に出かけるオペラ・DVDをお取り寄せしました。届くのが楽しみです。

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ミュージカル映画「ロシュフォールの恋人たち」

いい映画でした。キャスト、音楽、ダンス(半分バレェ)、ストーリー、色彩感、いう事なし。ピアノ変奏曲第三楽章がロマンチックで、ラフマ二ノフ以上を思わせます。全編がお洒落なフレンチ・トースト風味で、クラシックを土台にしたミシェル・ルグランの音楽に脱帽。映画「思い出の夏」の彼の音楽は半睡・半醒のマーラーを意識している雰囲気が隠れていますよ。まだ見た事がない方に心からお薦め。

カトリーヌ・ドヌーブは大好きな女優さんですが、上手に立派に見事に年をとりました。しかし綺麗だった。ジーン・ケリーも明るくてダンディです。時には映画館でしか会えない世界があります。

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上岡敏之指揮「町人貴族」「家庭交響曲」新日本フィル4月定演

感動の渦で幕を閉じた第444回新日本フィル定期演奏会。玄人好みとされるR.シュトラウス同プログラムを3日間に渡り英断した上岡敏之の直感と推進力、新日本フィルの高邁な精神性と結束力がその勝因だろう。

フランス・バロック様式を取り組み、現代的調性感が反映された小さな管弦楽組曲「町人貴族」は軽妙なエスプリが緩やかな流れに乗り、篠崎和子の木目細かなハープの音色が典雅な彩を添える。ホルンには丸みと洒脱な音色で更なる表現の幅を期待したい。

一転して、50分に及ぶ切れ目ない交響詩的「家庭交響曲」は、幽玄な広がりから壮重な世界へ変容し日常の抽象的奥深さを顕在化。コミカルな側面を内包しつつ、遠大な循環を続けるメビュウスの輪のごとき展開的終焉が生命の永続性を喚起する。一貫して安定した打楽器群、上岡の要請に応えたコンマスであるチェ・ムンスが自在で伸びやかな個性と真価を発揮。

従来のR.シュトラウス像に新たな種を蒔き、陽性な一面を保有するドイツ音楽の境地を切り開いた画期的な演奏会であった。

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グスタフ・レオンハルト 81歳チェンバロ演奏会 童話に現われる少年

レオンハルトのスカルラッティCDソナタ集を聴きながら、8日に書いた文章を見直しています。

☆☆☆5月7日(初日)第一生命ホール 7時15分PM~

純正律に基づいて曲の個性や時代に応じて音程や音色を作っていき、奏でた音を耳で捕え反射させ連ねていく、レオンハルト的な密度の高い特別な世界。小さめのホールで聴くべきだったというのが本音。音の語りを寄添い聴くような。

一部始まりは少々肩が重くなったけれど、バッハや2部のデュフリでピッチを高めに設定し、ポリフォニー的多重的旋律が重なった、煌きと高雅な音色は秀逸。途中不調和に感じられた部分もあったけれど、和声的なクープランのフォルテの深いアタックはチェンバロの魅力は一色ではないということですね。聴いておくべき音、聴いておくべき世界。

演奏後の拍手にキュートなはにかんだ会釈で応えるレオンハルト氏。だぼっとしたズボンのダブル折裾が童話に現われる少年のようでした。

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サティの朝 五月の珈琲

昨夜はサントリーホール:新日本フィル定演コンサートに行きました。指揮は下野竜也さんです。前半はプフィッツナーのチェロ協奏曲が物悲しげで音全般に組み込まれたホルンが静かな生彩を放っていました。ティンパニーも上手ですね。二楽章の中盤から弦の音色が艶やかに変化、第1曲マルティヌー「リディチェへの追悼」はザワザワッとした不安定感が重層的に連なり纏まっていました。どの曲だったかな、低音弦楽器で一瞬音が下がったかなと感じると、コンマスであるチェ・ムンスが正しい音程に戻しましたね。底力があります。

ベートーべン「交響曲5番」は金管楽器が息継ぎが欲しいかも?でも5番は私の耳にはヘイ・シュードのようにベリーポップ。帰り道、皆さん足が軽いこと。ベートーベンはネガティブな部分を払拭する健全なエネルギーがあります。下野さんは、どちらかといえば左脳型指揮者でしょう。現代的でリリックな感性に触れた一時でした。

今朝はNHK-FMからオーケストラ伴奏でサティ「TENDREMENT」が流れてきました。あっさり歌うとシャンソンに近いお洒落な歌曲です。珈琲と五月の朝にぴったりです。

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文章を書く行為 音楽との距離

ブログという形で、音楽や文芸に関して日々の思いや考えを書くようになって、約8ヶ月が過ぎました。うかがいしれないところで反響を呼んでいるようで大変驚いています。当初は文章修養の場として、また、クラシック音楽を日常的な存在として、或いは好きでない方に少しでも親しんでいただける材料になったらというのが、本意でした。

多少学生時代に声楽を学んだ事はあったものの、自身は音楽家として生きていくという自意識は全くありません。クラシック音楽は気詰まりで、ピアノ練習大嫌い、受験直前まで太宰治「斜陽」なんぞ読んでいた。ただ家にあるレコードを聴くのは好きで、兄というファクターを通して、アルゲリッチ、ミケランジェリのピアノ曲集、文芸的には難解な現代詩を受容的に知りました。才能はないのだけれど心の片鱗に文章を書けたらという思いが、長年離れなかった。

ブログではない私のHPに不完全な拙文が載っています。現存しない方、ダンタイソンを除いて何らかの形でご連絡させて頂いています。拙文は私に欠けている才気とエネルギーの憧れが形となった結果で、不遜ですが、音楽家にしろ、芸術家にしろ、あるべき姿、あるべき位置に、真価を発揮してほしいとう願いがあるのかもしれません。

先だって、N響アワーやNHK・FMで上岡さんの演奏が放映、放送されることを知り、嬉しく思いました。あるべき姿、あるべき位置が確立され、外形的要素から離れ、長年の上岡さんのドイツでの経験が還元される時代が来たなと思っています。肩の力が抜けました。

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追記事) ユーモアとペーソス、あたたかなエスプリ―オペレッタの魅力 世界初のオペレッタ・フォーラム(日本オペレッタ協会主催)

オペレッタの面白さに目覚めてしまった私。美しい声や歌の技術に加えて、洒脱で心の機微やロマンスがさらりと表現されている辺りは、恋愛礼賛を謳った「トリスタンとイズー」の残り香りか。そんなところへ、世界初のオペレッタ・フォーラムが2月に開催されることを知り、新国立劇場へ出かけた。

前半は、ハンガリー・ドイツ・日本人パネリストによる各国のオペレッタ紹介と、その展望についてディスカッション。興味深かったのは、オペレッタ演出家であり、新歌舞伎演出家でもある寺崎裕則氏の、「耳と目の悦楽に心の悦楽」という言葉である。母国語を用いた日本人によるオペレッタに、歌舞伎の特筆した発想や精神的エッセンスを隠し味とし、観衆の心と深く呼応する知的大衆オペラの提唱と32年に及ぶ実践の道のりは、頭でっかちな音楽を楽しめない私の体質改善と、日本人としてのアイデンテティを迫られた。

後半は日本人歌役者(寺崎氏は演技・踊り・オペラ的な歌唱に精通した歌手をこう呼ぶ)によるガラ・コンサート。ピアノ伴奏はパネリストであるブタペスト・オペレッタ歌劇場の首席指揮者・音楽監督であるカタリン女史とウィーン・フォルクスオーパーの指揮者であるトマシェク氏が受け持ち、お二人の本場仕込である伴奏につられて、私も心の中でハミングしたり踊ってしまう。

ヨハン・シュトラウス2世作曲、名作「こうもり」が成立したのはオーストリアが不況であった1878年だという(トマシェク氏談)。経済を基盤として世界中の世相が翳りをみせている今こそ、軽やかな動きとリズムに乗ったオペレッタのユーモアとぺーソス、温かなエスプリが必要だ。(2月29日記、5月12日見直し)

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歌川広重 安宅(あたけ)おおはしの夕立

時間ができたので近くの美術館へ。(ステレオ・デッキの調子がわるく筆舌しがたい。) 企画は歌川広重の東海道五十三次をふくめた錦絵シリーズ。人気(ひとけ)ない館内を、ゆったり歩く。

「安宅おおはしの夕立」は現在の隅田川・新大橋辺で、夕立に煙る木橋を急ぎ早に駆け抜ける人を描いた名作で、品格と繊細な叙情性が香立つ。その他の作品全体に、朱・鼠、藍色のグラデーションを基調として、川・海・雪・人・建物が柔らかく描かれ、北斎の大胆な構図と艶(あで)やかな色彩感とは異なった、そこはとない落ち着きと旅情は、普段は忘れている、または知らない日本的な情操性を垣間見たようだった

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阿修羅が語るもの

初めて出会った興福寺の阿修羅像。憂いを秘め忽然と遠方を注ぐ凜とした面立ちと、祈り、空を支え、宙を泳ぎ、三方へと向かう両腕に、言葉にならない感動を覚えた。阿修羅は怒りの神だと聞いたけれど、この像は人間に近しい眼差しと優しさで周囲を見渡す。

今も手元にある長い長い時を経た写真集の阿修羅は、指先が折れ、漆を盛って彩色された像の随所にひびが入っているが、ガラスケースが取り除かれ直に拝観した阿修羅は、今に生き返った伸び伸びとした様子と、以前は感じなかった身丈の小ささに驚いた。

端麗で見事な中央の面立ちに加えて、右の面は理知的な意志を感じさせ、左面の表情は野原を存分に走り回る腕白な亜子のようで、頼りな気だ。現代人と変わらぬ幾多の情感を、成人とは言い難い一つの像の中に込めた天平人の思惑は何なのだろう。

私には、邪心のない、祈り、護り、支える行為によって、時代を超えて力強く清らかに進む姿を促しているように見える。

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R.シュトラウス③印象と聴き方

昨日頂いた新日本フィルのコンサート用のパンフレットに、R.シュトラウスほど日本語資料が多い作曲家もあるまいと、ありました。20世紀における巨星R.シュトラウスの実存の重みでしょうか。次回の同プログラムコンサートでは、「組曲町人貴族」と「家庭交響曲」の相反した力学的魅力を楽しみたいと考えています。

さて、R.シュトラウスについて更に斜め読みをしています。彼は、オペラ指揮者の卵に向けた10か条を記していますが、これは、あくまでも、オペラ劇場のオーケストラ・ピットにおける指揮者の姿勢です。

若かりし頃のR.シュトラウスの指揮ぶりは、ピーターパンのように動きが華やかで、知的であった希代の名指揮者ハンス・フォン・ビューローの後継者ということもあったのでしょうか、激しかった。父フランツが「お前は大柄なのだから、そんな振り方をしなくてもいい。」と言っても止めなかった・・。

『オペラ ばらの騎士』で元帥夫人を演じた名ソプラノ歌手ロッテ.リーマンには「印象効果の方が遥かに重大である。」と述べ、無味乾燥な正確さよりも、印象的で効果的な歌を高く評価したということでした。聴くという行為のアタックにも忘れてはならないと思われます。

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R.シュトラウス②双子座 言語脳の仲間たち

シューマン、R.シュトラウス、ワーグナーの共通点、それは双子座です。その特徴はお喋りだそうです。(ご興味ないでしょうが筆者も双子座)

さて、シューマンの歌曲に大好きな「献呈」があります。先達て、ヴァン.クライバーンがリスト編曲「献呈」を弾いていて、ファンがステージに殺到しているビデオを観ましたけれど、私もうっとりしちゃう。高校の頃聴いたクライバーンのレコードは退屈だったのにね。

R.シュトラゥスの歌曲にも「献呈」がありますよね。(楽譜が見当たらないけれど)-「Ja、」で始まり、最後は6度跳躍して、「Danke!」という語彙でおわったと思います。短いけれど大変インパクトの強い曲です。

ワーグナーは自分で台本を書き、管弦楽を駆使し、歌唱旋律至上主義なイタリア.オペラとは異なった新しい境地である楽劇を創造した。

R.シュトラウス・交響詩「英雄の生涯」ですが、作曲家として偉大な軌跡を表現したという考え方と、家庭では平凡な人間であった彼の諧謔とユーモアに溢れたパロディという二つの考え方があります。2.3冊本を斜め読みしたり、曲のぷつぷつっとした触覚の結果、私は後者だと思う。シリアスが苦手みたいな。

人生と日常、音と言葉、といった二元性が溶解し折り重なって、独特なアート空間が広がったのだと、当然なことを考えました。

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ワルツ・ブーム

ワルツが流行っていますね。といっても個人的な気配かもしれません。1.2週間前に曽我大介さんのセミナー「美しき青きドナウ」、今朝の「題名のない音楽会」がウルツ特集、NHK・FMでは曲として流れていました。

途中から拝見した「題名のない音楽会」です。ワルツも源流をたどれば、疲れを癒す男女間の民族舞踏から発しているらしい。日本人の踊りの文化的主流は輪になって「盆踊り」、柳田國男さんの世界です。

仮面をつければ、個人性が逸脱される「仮面舞踏会」は一時的な階級社会の消滅でもある。

オペレッタ「こうもり」(カール・ベーム指揮盤)で、召使であるアデーレと女主人であるロザリンデ、男主人のアイゼンシュタイン3人が肩を組み踊りのステップを踏むんですけれど、これは西洋における市民社会の台頭という、現実の構図である事を意味しています。

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R・シュトラウスについて 読む、聴く ① 

音楽的技量と個人生活は、私はできるだけ切り離して考えます。個人生活に比重を置き過ぎると、音楽のもつ絶対性が歪められてしまう惧れがあるから。例えばマリア・カラスの恋愛話は有名ですが、彼女が単なる歌い手に留まらず、真摯な芸術家であった事をしめす本として、「ジュリアード音楽院マスターコース講義」が挙げられます。

さて、作曲家・指揮者としてのRシュトラウスは、偏屈であったけれど王立音楽院の教授や宮廷歌劇場主席ホルン奏者であった父をはじめとして、ハンスフォン・ビューロー、ブラームスなど著名な音楽家や友人に囲まれ恵まれた環境で、ワーグナーの音楽に影響を受けたものの、その日常生活はワーグナーもどきのスキャンダラスはなく、平凡であったようです。ナチス政権下でのRシュトラウスは、戦禍の犠牲者として捕えるべきでしょう。

作曲家としての活動は、人生の前半に管弦楽曲に取り組み、後期はオペラや声楽曲が中心でした。

組曲「町人貴族」や大曲である「「家庭交響曲」は、CDなどを通して軽く触れておくと、ライブでより鮮明にRシュトラウスの世界に入っていけると思います。指揮者によって同じ曲でも違った曲に聴こえます。

耳慣れすると、壮重な「アルプス交響曲」にも手が伸びました。

参献読本 リヒャルト・シュトラウスの「実像」

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批評の精神 煌いた才能への関心

友人のご主人に絵描きがいます。話が面白くて、ついつい長電話をしてしまうのですが、彼の絵の所属団体では、いい絵だな、と思う人ほど、その団体を辞めてしまうのだそうです。

素晴らしい絵に対する批評は良い面を無視して、あらさがしに終始する。保守的な人にいたっては、新しいものや個性的なもの全てが、理由なく駄目なのだそうです。

しかし、つまらない絵や感動のない絵に人は関心を持ちません。故に批評の範疇にも入りません。

この日の長電話で得た二人の共通認識は、ネガティブな批評には、煌いた才能の関心・羨望が隠されている、即ち褒め言葉の裏返しともいえるのではないかと結論がでました。切磋琢磨の芸術街道ですね♪

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オーケストラの日2009 サントリーホール「祝祭管弦楽団演奏会」マチネー・清澄な締めくくり

少し時間が空いたので、都内のオーケストラ・メンバーが集まって演奏するという面白そうな企画、「祝祭管弦楽団演奏会」に行ってきました。場所はサントリーホールで、3月31日=ミミにいい日とかけて、オーケストラの日と制定したそうです。

マチネーとソワレに分かれ、プログラムも別ですが、マチネー前には楽器紹介、ソワレ前にはサロン風コンサートが開かれ、機知に富んだ贅沢な内容です。また、この日は全国の加盟オーケストラによるイベントが一勢に開催されるそうです。

プログラム・モーッアルト「フルート協奏曲1番」のソリストは、次年度中学3年生になる新村理々愛さんで、大人以上の緩急自在なテクニックに驚きました。指揮者:大友直人さんの時折の微かな導きと素晴らしいコンビネーションで、肩のこらない、柔らかい開かれた音色を奏で続けました。タフタ地の可愛くふくらんだ銀色のドレスとフルートがセンスよくマッチしていて、大輪を思わせました。

プログラムが進むにつれて、演奏にバランスと熱気が増し、打楽器の健闘が目につきましたが、交響詩「ローマの松」第4曲、「アッピア街道の松」では、ホルンによる金管楽器の響きに始まり完成度が大変高く、フィナーレ近くで指揮者が下から押し上げると、オーケストラ全体の音がダイナミックに波打ち、寄せ集められたオーケストラとは思われない、清澄に呼吸が纏まって美しく締めくくられました。

ソワレではラフマニノフ「ピアノ協奏曲2番」の後に、「ローマの松」全曲が演奏されますが、深遠で壮重な演奏が予想されます。もちろん、演奏者と聴衆の手ごたえある呼応があっての事です。

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旬報)上岡敏之さん指揮・新日本フィル Rシュトラウス「町人貴族」 「家庭交響曲」・・音楽は炎を燃えあがらせること

4月27・28・29日、二夜一昼連続、上岡敏之さん指揮・新日本フィル演奏によるRシュトラウス「町人貴族」「家庭交響曲」同プログラム。約一年半に渡るオペラやオーケストラコンサートの集大成ともいえ、ワクワクしています。

CDを取り寄せ、過ぎないように耳を傾けていますが、各パートの主たるメロディが自然に浮かびあがってきて、筆者は、これらの曲を大変気にいっています。

高齢化が叫ばれている昨今のクラシックコンサート、形骸化され儀礼的なクラシックの正体にどれだけの若者が退屈しているか。しかし、上岡さんの聴衆は若年層が多い。ええ、もちろんハートがです。

昔むかしの受験雑誌から、上岡さんの音楽にぴったりなソクラテスの名言を見つけました。教育とは、炎を燃えあがらせることであり、入れ物を埋めることではない。」・・・教育という言葉に音楽という言葉を使ってみましょう。

「音楽とは、炎を燃えあがらせることであり、入れ物を埋めることではない♪」

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続編)アルマ夫人によって13年間秘蔵されていた、マーラー「交響曲 第10番」

昨日図書館に出かけ、レコ芸に目を向けました。面白そうな部分だけピックアップして読みます。この日は佐藤美枝子さんのインタビューとか宇野功芳さんの記事など。その中に、ディヴィッド・ジンマン(2009年1月N響公演で第10番1楽章を指揮)によるマーラーの取り組みが語られていました。

マーラー(1860~1911年没、門間直美著西洋音楽史概説より)が第10番交響曲のスケッチを描いたのは1910年の夏、1910年から1911年にかけてのアメリカ演奏旅行では10番を完成させる体力はすでになく、アルマ・マリア・マーラー夫人によってほぼ13年間秘蔵され、1924年にファクシミリ般での出版を許可、1924年10月24日にフランツ・シャルク指揮によってウイーンで初演されました。(ジョージ・セル指揮 CDライナーノートより)。

ですから、第2、4、5楽章の他者による補筆によって全曲という形が成立されたのは随分時間がたち、経過があっての事。演奏も1楽章、1・3楽章、補筆された全曲を取り上げる方法など、様々な試みや発想、考え方があるようです。

しかし、端的に言えば、1月23日上岡敏之さん指揮・読響によるマーラーは素晴らしかった。小澤征二・チェリビダッケ・井ノ上道義・松尾洋子さんなど優れた指揮者による演奏が記憶の淵から甦ってきますし、最近では新しい指揮者のタイプとして曽我大介さんに注目していますが、

これほど生彩に満ちた音色と生命感で指揮者の意味を確信させた存在は、初めてだったのです。

PS.音楽の友4月号:READER'S CORENERに、1月23日上岡敏之さん指揮・読響定演について投稿したミニコラム、「内面のドラマと愉楽の創出」がかわいいイラストと共に掲載されています。ぜひ、ご一読ください。

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3月の空♪音楽を友にして 聖アンデレ教会

港区の聖アンデレ教会合唱コンサートへ。東京タワーが間近に見える都会のモダンな教会。開演は午後4時30分から。ステージと客席が輪になり、会場全体を均一な明るい照明がてらす。天井の窓からのぞく空は次第に暗くなり、終演の頃には夜の帳で包まれる。歌う事が好きな人たちが集ったアット・ホームなコンサート。

プログラムはルネッサンス音楽の合唱から。「Ave  Maria♪~」、第1声は指揮者の明るく澄んだテナーで導入へ。新鮮でした。5声部によるモンテヴェルディ「アリアンナの嘆き」4曲は、曲自体のもつ厚みと深みによって、モンテヴェルディの内面に分け入ってくる神秘性と偉大さを感じる。2部のモーッアルト合唱曲は大曲で、中盤から、快活で熱気をおびたコーラスが会場をおおう。

音楽を、観ること聴くことから、自ら歌ったり演奏する悦びを教えてくれる演奏会でした。

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あなたの好きな指揮者は理系 それとも 文系?

エックハルト・レルケ著「指揮棒は魔法の杖?」インタビュー記事後半に、指揮者にも理系と文系があるという文章を見つけた。点を打つ機能的な動きを理系とし、代表格はカール・ベーム。体を揺れ動かす感覚的な指揮が文系で、代表格はカラヤン、バーンスタイン。DVD「薔薇の騎士」を指揮するカルロス・クライバーは、表情が大変豊かでチャーミングに手をぐるぐるまわす場面があるけれど、アームの流れで点を打ったり上下に叩いている姿は、本来的には理系だと思う。

では、カルロス・クライバーと上岡敏之の共通点は、チャーミングな表情と美的なラインである。ただ、こうした見方は現時点での事。年齢を重ねれば、動きは小さくなってくる可能性がある。曲や状況によっても異なる。動きとは固定的でないのである。

さて先々週のN響アワー「わが祖国」を指揮したラドミル・エリュシカさん。横隔膜から肩、手、顔の表情や表現をカメラが仔細に映していたが、長く深い大きいブレスでがっちりと曲作りをしていて、77歳とはとても思えない。2回目のシンバルで明瞭に強打を再び指示していた要因が興味深い。

最終的に、指揮者が手を大きく振ろうが点を細かく打とうが、身振りが大きかろうが小さかろうが、理系であろうが文系であろうが、地蔵のごとく立っていようが、バレエや日本舞踊、はたまたサンバを踊ろうが、年齢、世代、状況、音楽の時間軸に沿って、本番は指揮者自身に適した好きな信じているスタイルで粛々と事にのぞんで芸術性を追求し、聴衆を巻き込む集中力を高めることが大切だ。

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ピアニスト上原彩子さん ブラウン菅から

昨夜のN響アワー、1楽章途中からだったが、ピアニストに何かが乗りうつったように、ぐいぐい引き込んでいく気迫に満ちたプロコフィエフ「ピアノ・コンチェルト第三番」で、夢中で眼が追ってしまった。(暗譜するだけでも大変♪) 支えであったヴァイオリン属が控えめな中に、薄いパラペン用紙を幾重にもかさねた、円やかで繊細な輝きがあった。ウィーン気質というのでしょうかね。

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もう一度聴きたいヴァイオリニスト♪コー・ガブリエル・カメダ

次回はソロ・コンサートで聴きたい安定感と卓越したあらゆる技巧の持ち主。理性的な太い線と豊かな音色でプログラム全般が繋がり、女性ヴァイオリニストとは一味違った醍醐味である。時に低音域から中音域にかけて音程が下がっていた部分があるように少々見受けられたが、これはオーケストラ全体が音程がぶらさがっていた事が要因。中音域から高音域にかけては230%濃厚で美味しい響き。アンコール最後にビアソラが選ばれ、適度な甘さとピアニッシモのフィナーレに、ヴァイオリニストから直線状に座っていた女性数人によるスタンディング・オーべーションが。

情操的には、前半エグモント序曲の次に演奏されたメンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲が淡白で揺れ感が欲しいと感じたが、後半ブラームス:ヴァイオリン協奏曲では、ダイナミックに男性的に表現しようとする戦略的な意図が伝わってくる。オーケストラは超一流の演奏者であっても、物怖じせず気後れすることなく、フォルテを使い、ブラームスの内奥に迫ってほしい。

3月7日(土)東京オペラシティコンサートホール(タケミツメモリアル)16:30開場、17:00開演。指揮 増田宏昭さん オーケストラ ジャパン・クラシカ 終演は早からず、遅からず、演奏後にお茶や食事を楽しむのに良い時間。

PS.私の好きなブラームス・ヴァイオリン協奏曲(CD) Vn. ビクトリア・ムローバ 指揮クラウディオ・アバド ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1992年東京ライブ録音)

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弥生3月♪川嶋仁ピアノコンサート・聖アンデレ教会合唱コンサートご案内

~春の誘いコンサート~

ショパンとフランスものを気軽に愉しむ

♪川嶋 仁 ピアノリサイタル(帰国デビュー10周年) 3月15日(日)午後6時半開場・7時開演 アミュー立川小ホール 全自由席 一般3000円 学生1500円

プログラム ピアノソロ ショパン:マズルカ OP..17 No.4、エチュードOP.10 No.4 他

ハーモニカ・ソロ 演奏/崎元 譲さん T.ライリー セレナードとカプリシオ

2台ピアノバージョン ショパン ピアノ協奏曲第1番 (第2ピアノバージョン野中正さん)

川嶋 仁さん 東京芸大ピアノ科卒・ワルシャワ・ショパンアカデミー、同大学院博士課程修了後、パリ・ベルリオーズ音楽院研究科修了。東京純心女子大講師。

教会で合唱の響きに耳を傾けながら

♪coro vero &合唱団かがり火の会 ジョイントコンサート 3月21日(土)午後4時開場・4時半開演  聖アンデレ教会聖堂(港区芝公園) 全席自由2000円

プログラム 1stステージcoro vero モンテベルディ:アリアンナの嘆き プーランク:サルべ・レジーナ他 指揮 小屋敷真 氏  

2stステージ合唱団かがり火の会 モーツアルト「孤児院のミサ」

指揮 山田 実氏 ソリスト 大沼美恵子さん(ソプラノ) 小川素子さん(メゾ) 牧野成史さん(テノール) 宝福英樹さん(バリトン) 

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マーラー交響曲第10番(指揮ジョージ・セル):CDライナーノートより

昨夜、NHK新日曜美術館で日本画家「加山又造」の特集を懐かしく見ていた。そのまま「N響アワー」にシフト。テーマ音楽とタイトル画像が変わっていて、マーラー交響曲第10番とショスターコーヴィッチ第9番が取り上げられた。

未完であるマーラー交響曲第10番は弦楽器を主体とした1楽章を演奏。ジョージ・セル指揮クリーヴランド交響楽団(CD:1958年 Severance Hall 録音)のライナーノートによると、

「2、4、5楽章はあまりにも断片的で補筆不可能、1楽章:アダージオは略式総譜(ショート・スコアー。編成を縮小してピアノやその他の楽器のために書かれたスコアーに類似する)判読可能、

第三楽章インテルメッツォ(プルガトリオ)はスケッチの形で残されており、前後の関係から推測して補足、エルンスト・クシュネックによってやり遂げられた」とある。

ジョージ・セル指揮:マーラー交響曲第10番は、1楽章(22分15秒)後に第三楽章であるインテルメッツォ(プルガトリオ 3分57秒)が続き、ティンパニの連打が入り、シンバル、ゴングが打ち鳴らされて幕を閉じる。

楽曲の解釈や見解は柔軟であれば、多角化され悦びも増す。他のプログラムとの調整もあるだろう。聴く側に音楽は何をもたらすのか、という点を大切にしたい。

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CDから聴こえるエマー・カクビーの声、実在の声 合唱の声

学生時代からしばらく声楽を教えていただいた先生は、古楽に傾倒していらした。ある日、古楽の女王として知られるノンビブラート奏法のソプラノ歌手エマー・カクビーの研鑽から戻られると、先生は「もっと、口(口の奥を意味する)を大きく、ダイナッミックに!」と、行かれる前とは正反対の指示をだされるようになった。CDで聴いたカクビーの声は清澄で小じんまりと聴こえるが、実際のレッスンでは大変深い豊かな表現で、実在の声とかなり違いがあると言われた。

このことから、CDや世界中から届く音楽配信は、日常に潤いや刺激を与えてくれる良い材料だけど、実際の音質や音量と隔たりがあることを認識した。三十代半ばに、イギリスのカンタベリー教会で100人以上の、おそらくはアマチュア合唱団の練習風景をかいま見、精力的で溌剌とした印象は、時折日本で耳にする、成熟した人間がボーイソプラノを真似た不自然な声色とは較べようもなく、一見完璧を装う緊張した表現よりも、不完全でありながら生彩な悦びと深く豊かな発声のアマチュア合唱を良しと考える。

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新国立劇場 2008年オペラ「椿姫」・エレーナ・モシュクの本懐

とあるワードでウェッブ検索をしていると、以前、上岡さんについて書いた川田の拙文が巡回していた。その文章でオペラ「椿姫」を紹介をしていたのだが、感想を書いていなかったので、遅まきながら残しておこうと思う。

2008年「椿姫」2回目の公演である6月8日と千秋楽17日(この日は劇場内のビデオで一場を観る)に出かけた。オーケストラである東京フィルはヴェルディ特有のズン・ズン・ズンというリズムに乗り、ワーグナー以降の管弦楽的な深みや色彩感が巧みに加わり、同年11月、日生劇場「魔笛」と同様な、作曲家の意図を充分に取り入れた緻密な解釈と審美性が、指揮者によってなされていた。

この時点で言及をさけたのは、歌い手側に対する私の考察が不十分に思われたから。ヴィオレッタを演じたモシュクは、コロやドラマチックが歌える高度な技術を要しているが、声質はリリック・ソプラノで、拝見できなかった「ドン・ジョバン二」のドンナ・アンナ役が最適だと考えていた。この役が好評を博していることを嬉しく感じている。「椿姫」だが、「ドーシラソ-ファレ~(↘)♪」という旋律が背景に流れ、ヴィオレッタが手紙を書いて地声で語る奥深い魂の表現は、男性陣歌手2人とは比較にならない、モシュクが歌手としての本懐をかけた舞台だったことを意味し、見事だった。

日本人では、出番は少なかったが、テノール樋口達哉さんの煌いた発声が抜きん出ていた。西洋人の周波数に近いのかなと、物理学の門外漢が思った。

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チェンバリスト グスタフ・レオンハルトの魅力 推薦「ゴールドベルク変奏曲」

のんびり屋の川田が即座にチケットを入手したのが、ゴールデンウィーク後に来日するレオンハルトのチェンバロ・リサイタル。耳障りがないチェンバロのぺシャンとした音色が好きなんですね。モーツァルトのオペラで、情景転換に通奏低音としてのチェンバロが用いられますが、ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オーケストラも巧く使っていました。

古楽界でも最も高名なレオンハルトを知ったのは、フェルメール展で描かれていたヴァージナル(英語 チェンバロよりも小型)によって、フェルメールが生きたネーデルランド17世紀の音楽がかもし出す雰囲気や感覚に触れたかったから。そして、レオンハルトのCD「ゴールドベルク変奏曲」による本質的なバッハ演奏につながり、驚愕しました。イントロから違います。眠るのに最適!!お薦めCDです♪

このところ、音楽業界におけるライブ熱は目を見張るものを感じます。スケジュール調整をして予定を入れないと、列車に乗り遅れてしまいます。

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PART Ⅱ 上岡敏之さん指揮・読売日本交響楽団定期演奏会

ブログの良い点は、即時性があるということですね。逆に消化しれきない時点でのオピニオンともいえるわけです。サントリーホールの記事でアクセス解析閲覧数が3、4倍増えて驚いていますが、最も多い日は夜更けから夜明けにかけての訪問者があり、演奏を聴くことで普段使っていない感受性が覚醒・喚起されて眠れぬ夜を過ごした方も多いのではないかと、ふと共時性という言葉が浮かびました。

前回のブログで書かなかったこと、書き足りなかったことを追加します。まず、モーツァルト/ピアノ協奏曲第23番で、ほぼパーフェクトといった意味は、ピアニストがモーツアルトからチャイコフスキーのピアノ協奏曲のような切り返しをはかった場面があったのですが、本人もすぐに気づかれて、奥深い品格のある弦楽合奏と指揮者の配慮・連携で洗練されたピアノによる最高の協奏曲となりました。オペラ「魔笛」による読響と指揮者でのプロセスの結実ともいえます。読響、200点満点!!

ワルツ 「隠された引力(デュナミーデン)」 については、この日の演奏というよりも、ワルツのリズム感は、まだ日本人には獲得されていない段階と読みました。踊りは頭で統轄する動きではなく、ステップを踏むこと、Will you dance?

ロジンスキーが編曲した「オペラばらの騎士組曲」は交響的に楽しみました。20世紀の調性感というのでしょうか、入れ物を単に満たすだけではない、多様な波の振幅を超えていこうとする意欲がありました。回を重ねるごとに、更に深まりのある曲へと発展していったのではないでしょうか。

全体を通して、マーラー交響曲10番のヴィオラに始まり、深みと豊かさに溢れた諧調がプログラムを瑞々しく覆い、複数回聴いてみたいコンサートとなりました。

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上岡敏之さん指揮・読売日本交響楽団 26日より名古屋・大阪・北九州市・福岡へ 組曲「薔薇の騎士」他

梅の花がほころんでいくように、上岡敏之さん指揮・読売日本交響楽団が、次週1月26日(火)から名古屋・大阪・北九州市・福岡へと巡っていきます。

曲目は、J.シュトラウスII/喜歌劇「こうもり」序曲
モーツァルト/ピアノ協奏曲第23番
ヨゼフ・シュトラウス/ワルツ 「隠された引力(デュナミーデン)」

ロジンスキー編曲 /オペラ『ばらの騎士』 組曲

昨日23日(金)午後7時より、東京サントリーホールで行なわれた演奏会では、第1曲にマーラー/交響曲第10番から アダージョ 嬰ヘ長調が取り上げられました。既知でない曲への試みは、上岡さんのアーテイスティックで革新的な側面を顕しています。ホールは舞台を客席が包むヴィンヤンド方式(葡萄型)、指揮棒がおろされると、即座にホールは楽園と化しました。オーケストラの響きが逆に客席を丸く包み、夢想へと誘います。すばらしいスタート。トランペット、パーカション、オーケストラから新しい曲に対する挑戦の強い意志が伝わります。舞台左側後方に私は席をとりましたが、位置的に上岡ファンも多く、食いいるように指揮者を見ている方がいらっしゃいました。カルロス・クライバーも真ッ青!!

ピアノ協奏曲第23番を弾かれたフランス人であるフランク・ブラレイ氏はご自身の耳がとても良いピアニストで、無意味な響きをおさえたロココ的で端正な曲づくりで、パーフェクトに近い演奏でした。黒いジャケットに真紅のシャツを着こみ、茶色の髪が肩までさがったロックンローラーのような溌剌とした印象にファンも増えていくことでしょう。

四月末には上岡さんと新日フィルとの共演が予定されています。ますますのご活躍を期待します。

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ポルカとワルツ、ウイーンオペラ舞踏会管弦楽団、ウイーンリングアンサンブル、ニューイヤーコンサート2009♪

10日(土)にウイーンオペラ舞踏会管弦楽団ニューイヤーコンサート(メンバーはフォルクスオーパー中心)。場所は東京初台オペラシティ、2時開演。オペレッタ「天国と地獄」のフレンチカンカン踊り有り、歌あり、アンコールには美しき青きドナウと指揮者のリードによる観客の手拍子で盛り上げたラデッキー行進曲で幕を閉じました。お正月にあった、おめでたいプログラムです。

私の席はヴァイオリン属が目に映る舞台席右側でした。菅と打楽器は連日続く乾いた大気もあって不調でしたが、かくいう私も万全のコンディションではなかった。しかし、ヴァイオリン属は3曲目から歌が入った4曲目にかけて、音色が開かれ落ち着いた統一ある本場の音に変化しました。特筆すべきはコンサートマスターであるハンス・グレッツアー氏の、時に金銀の糸で織られたような細い音色とヴィヴラートをうまく使った上品な音楽性とバランスの取れた人間性も伺われ、耳障りとなるバイオリンの音は前半中盤から聴くことはありませんでした。ソプラノのメルバ・ラモスさんは絶好調。美声で幅広い滑らかな奥深い声質で、オペラもいけそうです。外見の肉感的な雰囲気はキャサリン・バトルに似ているかな。でも、踊りや歌を楽しむには、席はサイドよりも中央がいいかなと思った次第です。

11日(日)にはウイーン・リング・アンサンブル・コンサートへ、午後7時より、田園ホール・エローラにて。このホールは交通の利便性はありませんが、収容人員が520人という小じんまりしたホールなので、室内楽が充分に楽しめるしと思い、昨日の私の体調も昇って勇んで出かけました。

ところがです!!演奏前から隣席の方が、せっかくチケットを買って寒い夜に出かけるわけですから、積極的に楽しめばいいとおもうのに、ご機嫌が悪いんです。

(車の移動で道に迷ったのかな。スカートをはいていた私のために、会場係の方が防寒のためにひざ掛けをサービスして、スラックスをはいていた隣の方にはお声がけをしなかったからかな。)

多分演奏者からも見える位置。後半はわずかに空席があいていた後方に私はさがりました。演奏云々というよりも、ワルツやポルカなのでリズムにのって聴いてくださる方の横に偶然座って次回は演奏を楽しみたいものです。プログラムのラストであるオペレッタ「騎士パズマン」チャルダーシュは、威信をかけたウィーンフィルメンバーの白熱した交響的でアーティスティックな演奏はさすがでした。

結論として、美しき青きドナウが一番お似合いなのは、ウイーンの街のようです。

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2009 モンテヴェルディ オペラの聖と俗 

音楽史的なオペラについて調べ始めたところ、モンテヴェルディの偉大さや17Cヴェネチアに興味が沸いています。

ヴェネチアの貴族によって私邸であった劇場は1637年に公開、オペラが上演。安価なチケットを求めれば誰もがオペラを楽しむ事ができるようになったのでした。その後ヴェネチアにはウヨウヨとオペラ劇場が誕生したといいますが、これは貴族の金儲けの方策であったらしい。その後、至高性よりも、歌手の技巧を楽しむ見世物的な要素が流行したらしいのですが、いつの時代も聖と俗が混在しているのが世の常かもしれません。

モンテヴェルディは序曲をおくなど、近代オペラの様式や構成の礎を創造した革新的な音楽家であることを知り、モーツアルトにも匹敵する天才であったと想像すると背中がゾクゾクしてきます。久方ぶりに、イタリア歌曲集「Lasciatemi morire」を取り出して歌ってみると、劇的で不協和音を使われているのが解りました。

2009年、世界中のあちらこちらから不協和音が聞こえてきますが、反面オペラや演劇、コンサートにエネルギーを求めて、盛り上がりを見せるでしょう。音楽的な力の発揮時といえましょうか。

参考文献 西洋の音楽社会 オペラの誕生と教会音楽3巻 フェニーチェ劇場2005年公演HP 

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クラッシック的音楽の力 東敦子さんと早稲田グリークラブ

ご主人がヴェネチア人であるご夫婦と、とある東京の宿舎でおしゃべりをしていると、ご主人がコーヒーを飲みながら「10年前のあのホテル(注・日本内)で飲んだコーヒーは美味しかった。」と、目を潤ませておっしゃいました。街全体が歴史の中に沈んでいるイタリア的回顧というのでしょうか、私は目が丸くなるほど驚きました。

音楽も時と共に流れていく一過性の所産でありながら、記憶と体内に深く刻み込まれる場合があります。そのお一人にソプラノ歌手であった今はなき「東 敦子さん」のジョイント・リサイタルを思い出します。背筋をしゃんと伸ばして闊歩する姿は、風格にあふれていてヨーロッパ的でした。最後にヴェルディ「乾杯の歌」を歌われたのですが、肩高くあげている右手に、持っていないゴブレットが確かに見える、力強いお声でした。

また、ある夏のこと、早稲田大学のグリークラブによる演奏を実家近くのホールに聴きに行きました。公演が終了し帰路に向かうと、合唱団がホールの外である広場に出てきて観衆を呼び止め、夜空に向かって再び歌い始めたのです。卒業を間近に控えた学生達にとって、今晩が最後の公演なのでした。ロシア民謡「カリンカ」を歌う甲高く美しいテノールが夜空に響き渡ります。

東敦子さんのコンサートは、ご病気の後だったのでしょう。「生きていくことは生易しいことではありません。」と歌の合間にお話をされました。技術もさることながら、演奏者の人生折々に訪れた感慨に出くわしたときに、いい知れぬ、感動以上の何かに突きあたります。音楽も絵空事ではないのです。

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イタリア・オペラとはイタリア語で書かれているオペラ!

昨日セミナーに行ってきました。講師は森田学さん。ご専門はイタリア語の歌唱構音(音声学)で、国立音大等で教鞭を取っていられる先生です。バス・オペラ歌手でもあられます。

で、何が面白かったかというと、オペラ(音楽劇)についてのシンプルな定義として言語による区分けをしていたということ。ですから、モーツアルトはオーストリア人ですが、歌詞と台詞がドイツ語で書かれている魔笛はドイツオペラ、他の作品はイタリアオペラということになります。発声によるイタリア的とかドイツ的という区分けよりも大変明瞭なんですね。

また、オペレッタやミュージカルもオペラの派生物として大まかに組み込んでいらっしゃいましたが、この点も賛成です。DVDでレハールのオペレッタ「微笑みの国」を見ると区別がつかないくらいミュージカル的、破天荒で悲劇的なイタリアオペラに比べれば、ミュージカルは台詞が多く、ストーリーは結構まともで、歌い方は多少ポップで軽みがあるということでしょうか。

ドボルザークが作曲した「ルサルカ 」はチェコ語かドイツ語で歌われますのでチェコオペラとなりますし、「夕鶴」はジャパニーズオペラまたはジャパンオペラとなりますね。ここらへん、どうなんでしょう?詳しい方、教えてください。

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良き聴き手の情熱が良き演奏を生む現実、歌い手を軸とした格式、ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場オペラ「フィガロの結婚」

簡素な舞台装置によって、逆に歌い手のコントロールがきいた品格が際立つ舞台を、私は好きだ。声をはりあげるのではなく、鼻腔が開き、奥深いフレージングをつなげた美的なレガート奏法と明瞭な発音が、四階席の私まで的確に届き響く面白さ。欧米人にとって話す事と歌における発声の位置は同じだが、声楽を学ぶ日本人とっては、この点が大きな相違であり関門なのだ。大昔にイギリスのENO(イングリッシュ・ナショナル・オペラ)の「ラ・ボエーム」を観たが、細い絹糸のかもしだす透明なミミの歌声に、言葉の意味もわからずに涙がこぼれたことがある。

メイン・キャストに焦点をあててみると、スザンナの全幕を通した清純な声と知的なコントロール、役柄の人間性に応じて声色が変化し重厚にしめくくられた伯爵の高度な技能が伝わってくる。フィガロ役を演じたバス・バリトンの熱のこもった演技とめりはりのある声の表現、ケルビーノを演じたユスティナ・レチェ二エティの清澄で高音のほどよいヴィブラートから伝わる真摯な人柄に涙腺がゆるみ残像となる。

三幕での村人の輪舞と合唱から伝わる民族的な場面で、柔らかで温かい歌い手にとって良きパートナーであったオーケストラがバッハ的な洗練された深い諧調へと転換され、技巧的な力量を発揮しつつ巧みな支え手でもあった。終幕、伯爵が夫人に許しを乞う場面では、合唱を用いずにメインキャストのみの重唱で終局へと向かい、バランスとエネルギーが押し出された大変個性的な演出だった。

「フィガロの結婚」は、ジュリー二指揮のCDハイライト版、1980年版のルチア・ポップのスザンナ、アグネス・ヴァルツァがケルビーノ役であった映像を複数回見聞きしたが、やはり生の演奏、面白さにはかなわない。そして、良き聴き手の情熱が良き演奏を生む現実、演奏する側と聴き手の相互的なコミニュケーションが名演をつくることを教えてくれた演奏会であった。

12月4日(木) 午後1時30分~ 渋谷オーチャードホール 演奏)ポーランド国立ワルシャワ室内歌劇場 ダブルキャスト アルマヴィーヴァ伯爵:ヴィトルト・ヴィトルト・ジォウォントキェーヴィチ フィガロ:アンジェィ・クリムチャック、ダリウシュ・マヘイ アルマヴィーヴァ伯爵:ヴィトルト・ジォウォントキェーヴィチ スザンナ:ユスティナ・ステンビェン他  

  

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吉田秀和企画展

ラジオやテレビが便利なところは選択がきくところです。嫌な番組ならチャンネルを回す、スイッチを切ればいい、ところが仕事をしながら、ついつい手がおろそかになり、神経が集中してしまうラジオ番組があります。

音楽評論家である吉田秀和さんがクラッシックの名盤を紹介する「名曲のたのしみ」で、30年続いています。

「メイキョクノタノシミ ヨシダヒデカズ」、という飾り気ない言葉で始まり、枯れた中にもしなやかな声色(こわいろ)は、感覚のよいリスナーなら、ここで耳がつんと立ってしまう。ある作曲家をテーマとした説明の後に曲をかけていくだけなのですが、時流を加味し、常に新しい試みと意欲をもって選択された曲の数々は、確かにあたりはずれのない名曲で、楽しさ以上に鋭い息吹が伝わってきて、震撼すらおぼえるのです。

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10月初め、鎌倉文学館で開催されている「吉田秀和企画展」に出かけました。静寂な室内の前に座り、秀和さんの日常や執筆中のたんわりした姿がビデオに映し出され、近しく感じられます。建物のテラスからは、木樹と家屋のあいまに、秀和さんが散歩するという由比ガ浜がのぞき、そのまま浜辺に足を向けました。

白波がさわさわと押しよせ、遠い水平線が薄水色の空と重なり、人影まばらな穏やかな秋の海は、私をほんの少し幸せにします。しかし、戦後の日本で覚悟と信念をもって歩まれた軌跡が、薄紅色を含んだ壮重なハーモニーとなって押寄せてくるのも事実でした。

 

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観ることから、分析へ 上岡敏之さん指揮 オペラ「魔笛」 

地下鉄日比谷駅A13出口の階段を小走りにかけあがる。歌舞伎であれコンサートであれ、カルチャーイベントに向かう時は、誰だって気持ちが高揚してくるものだろう。会場である日生劇場相向かい側、道路右手に帝国ホテル、後ろを振り向くと日比谷公園。劇場ビル角の彫刻とカフェテラスがよりアーティスティックで愉しい気分へと連れていく。

ホールは壁一面に白亜の石がはられ、天井はロココ的でゆるやかな赤い弧をえがき、非常に珍しい瀟洒な空間である。舞台は奥ゆかしい大きさだが、舞台から座席をみると、2階席と視線が同一線上となり、演じる側が観衆に溶けていくような不思議な高さである。

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さて、魔笛は大昔に外人による演奏を見て何も残らず久しく全く興味がなかったオペラ、渋々キャンセル待ちで手にいれたチケットは斜めからオーケストラピットと歌手の動きや演技が見わたせる右手2階席、中高生を対象につくられたオペラであるが、予想よりはるかに面白く拝見した。

序曲でオーケストラは軽快さと暗鬱さが微妙に入り混じったモーッアルト魂を見事に表現。全幕を通して管弦楽器共に開かれた原音と響きが聴く側に解放感をあたえる。フルートは優美でバランスのとれた響きでうかびあがり、グロッケンシュピールが天上の音のごとく美しい。二幕中盤で低音の歌声に連動する旋律に中だるみ感があるものの、計算されたかのように、後半から広大無限なフィナーレに向かう重唱とオーケストラがからみあう。

歌い手は動きをふくめてバターくささがあり、日本人のオペラにしてはからっとした仕上がり、若い方々のフレッシュな歌声とパワーが伝わってきて、今後さらなる発展が期待される。残念なことに演出の意図であろうか、夜の女王のアリアがむやみに動きが激しく、技巧を要するアリアの特質を理解し、発声の基本を重視して、歌手をむやみに酷使しない方向が望ましい。劇場の装置はファンタスティックでユニークであり、ゴージャスだけがオペラではない方向性を示している。

また後日の魔笛フォーラムで、指揮者である上岡さんによる調性を考慮したオペラ解釈のお話をうかがったが、得てすると、歌い手の発声について目が向きやすい私には、観て、聴いて、さらに言葉や楽譜もながめながら楽しみ考察する、オペラ世界の深さを知る機会になった。

全般的には、良質な音楽性を支えに、日本人によるオペラ造りによってオペラや魔笛ファンを増やす良い演奏会であった。

11月9日(土)日生劇場 指揮:上岡敏之さん 演奏:読売日本交響楽団

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適度な緊張と安寧 レナード・バーンスタイン作曲:交響曲第2番「不安の時代」

初めて聴いたバーンスタイン作曲、交響曲第2番。標題「不安の時代」は、経済恐慌や多くの戦禍にみまわれた20世紀という歴史の暗部がもたらす内面の緊張を顕しているのでしょう。

現代音楽のもつ、ほどよい和声的緊張感の流れに添って、ピアノが対立軸の協奏楽器として成り立つのではなく、オーケストレーションの一員として、琴の調べのように、優しく潤いのある音色が新鮮で、ファジーな不安に浸されて寝入ってしまったのですが、徐々に明るさが増す曲の広がりと共に覚醒していき、パンドラの箱から最後にでてきたのは「希望」でした。

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バーバー作曲「弦楽のためのアダージョ」は、鏡面の海がゆらめくように、静謐な弦楽器の響きと透明感が伝わってきて、アメリカナイズされた20世紀音楽が、身近な生活の一部に、今や降りてきたのです。

放送番組 NHK FM 「オーケストラの夕べ 」10月4日(日)7時20分~

パーソナリティ吉松 隆さん/管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団/指揮:尾高 忠明さん /ピアノ:江口 玲さん



           
              

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音楽 、悦びの友、苦しみの薬-フェルメールの作品から伺われる音楽の意義

フェルメールの作品には、リュート、ヴィオラダ・ガンバ、ギター、チェンバロ、ラッパ、フルートなどの楽器や楽譜が登場しますが、17世紀半ば、フェルメールが生まれ育ったオランダ小都市デルフトも、15世紀にバロック音楽の先駆けとなったフランドルに近く、身近に音楽が息づいていた土地柄であったように見受けられます。

画題「リュートを弾く女」では、鈍い光を受けて、微かな湿りと静謐な室内でリュートの調弦もそぞろに、窓の外をうかがう女性のアンビバランスな表情や動きに実在感と臨場感があり、音楽的であります。

フェルメールの自画像とされている人物が、弦楽器を手にして、独特な笑みを浮かべている作品がありますが、この絵から推測すると、彼自身も、音楽を聴き、奏で、楽しんだ人物だったのではないでしょうか。

フェルメールの人生は謎に包まれているようですが、11人の子供の父であったという市井に生きる家庭人の一面と、高価な青い絵具をふんだんに使ったという、画家として生き切った自負を通して、日常にからめられた芸術家としての在り様が、現実味を帯びて浮き上がってきます。

「音楽の稽古」という作品では、音楽教師が鍵盤楽器ヴァージナル(チェンバロより小型)の右手に立ち、中央に鍵盤に向かう生徒の後姿が描かれていますが、開けられている楽器の蓋側に、次のような言葉がラテン語で書かれているそうです。

         -音楽 、悦びの友、苦しみの薬  -

古来より音楽とは近しい友であり、力を与える薬であったということなのでしょうか。

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真摯な試みと情熱・大萩康司さんギターリサイタル~軽井沢八月祭

8月16日(土)から8月22日(金)に、「軽井沢八月祭2008(音楽祭)」が大賀ホール(下記記事参照)で開催されました。

大賀ホールの座席数は1階が660席、桟敷となる2階140席は、多くの人が親しんでもらえるようにユニークな立見席となります。

五角形にかたどられた天井中央には星のガラス窓が配置され、遠く天空へとつながっていきます。

16日(土)の午前から夕方にかけて、ハープ、二胡、バイオリンなどの幅広い弦楽楽器のプログラムが組まれ、正午から約1時間「大萩康司(おおはぎやすじ)さん」のギターリサイタルを聴きました。

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椅子と譜面台だけの簡素なステージに、黒いジャケットに身を包み、ギターを抱えた大萩さんが颯爽と現れました。彼はまだ30歳前後。甘い感傷的な曲目でコンサートが始まり、聴衆の目と耳が一点に注がれます。

後半に演奏されたヒナステラ作曲ソナタは、弾いた後に爪から血が出るほどの何曲で、ギターのボディを叩く激しいアクションが入り、静謐な

会場に熱気が立ち上がります。

難解な技術が要求される南米のギター作品を駆使して、妥協を許さない若さに溢れる真摯な試みと情熱は聴衆を力強く惹きつけ、日頃の疲れが肩から抜け落ちて凛とした思いで会場を後にしたのは、私だけではありませんでした。

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さながら古都の建築物、大賀ホール

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清清しい香りが漂よう大賀ホール

長野新幹線「あさま」号を利用すると、東京駅から軽井沢駅まで約1時間10分。さらに軽井沢駅から歩いて約10分の場所に、大賀ホールがあります。

建物の背面には穏やかな山々が連なり、前方の池には情感あふれる木橋がかけられ、左手に青々とした芝生が広がります。

自然と溶け込み、良質な音響効果を均一にするために五角形に設計された木製の建物は、さながら古都の建築物。

館内ではクラシック音楽を中心に、ポピュラー音楽や狂言、発表会など、幅広い文化イベントが四季を問わず繰り広げられています。音楽ファンならずとも、ふらりと都会の喧騒からはなれて自分を取り戻すには、最適な場所といえそうです。

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自然回帰

Dscn0763_8 山、空、高原、太陽。自然に囲まれて、野原をいくと、清清しい気持ちで一杯になります。

人間が創造した文化、芸術、学術、音楽の意味を問いただすように、自然は崇高な魅力で迫ってきます。

                                                       

浅間高原・8月の空

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